兵庫県の丹波篠山市といえば、ぼたん鍋やデカンショ節、黒豆が有名な場所。篠山城を中心とした旧城下町でもあります。
その篠山城。天守台はあるけど、天守閣は当時から無かったみたいです。青山氏の居城でもあったようで。(ちなみに東京の「青山一丁目」の“青山”の名はこの青山氏から来ています)写真中央に見える三角屋根は、2000年に復元された二の丸大書院です。
城の周りは伝統的建造物群保存地区となっていて武家屋敷や商家が数多くの残されており、いい感じです。(下の写真は河原町妻入商家群)
しかし、今回、私がこの地にやってきたのは大書院でも城下町でもぼたん鍋でもなく、別の理由があったから。篠山城中心街から南東方向に進み、篠山川を渡った先の「池上地区」という寂れた住宅街が目的地でした。
この「池上地区」は明治44年、新設された大日本帝国歩兵七十連隊の慰安目的で出来た“京口新地”と呼ばれた遊郭でした。全国遊郭案内には次のように紹介されています。
篠山町遊廓は兵庫県篠山町糸口新地にあって、汽車なら福知山線佐野駅で篠山線に乗り換え賀古川の上流篠山駅で下車する。現在貸座敷二軒娼妓約百十名位居り陰店(かげみせ)を張って居る御定まりは一時間二円位で宵から引迄四円位、又昼間三円五十銭程度である。
この遊郭は、あの阿部定が娼妓として最後に働いていた「大正楼」という建物が現存する場所で、廓好きの間では名所になっています。
阿部定は最初は芸妓でしたが、18歳になるとすぐに娼妓として客を取るようになり、日本各地を転々とします。横浜、富山、東京、信州と渡り歩いた後、大阪の飛田遊郭、名古屋の中村遊郭、再び大阪の松島遊郭に移りました。そして娼妓として最後の生活を送った地が、ここ京口新地(の大正楼)でした。
逮捕後の取り調べで、阿部定は「大正楼では玉ノ井の淫売以下の扱いを受けていた」と述べています。
京口新地は細い用水路が流れる一角にあります(地図①)