龍城連 -愛知県-

徳川家康の故郷、愛知県岡崎には『東遊廓』『羽柱連』『龍城連』『松栄連』という四花街がありました。「全国花街めぐり」には以下のように記載されています。

岡崎の四花街 岡崎女郎衆はよい女郎衆───藤川張りの三味線で岡崎女郎がうたふを聴けばチンチン池鯉鮒とよう鳴海───の昔から嬌名五十三次に隠れもなかつた岡崎市は、たとへ矢作川の淵が瀬となり、瀬が淵と変わろうとも、依然として弦歌嬌盛に浮かれ男のこころをそそつてゐる。しかも其の盛んなることは到底昔日の比にあらずで、人口六萬の市街に一遊廓三花街(芸妓三百六十三人、娼妓百五十三人)の存在が、その事実を最も雄弁に物語つて居る。省線を岡崎駅に乗すてて一歩構外に踏出せば、すぐに其処には「羽柱連」なる一党が「椋鳥やらじ」と網を張つてゐる、が此処は所謂場末の新開地でほんの通りすがりの仇なさけ、岡崎女郎の真価は廓芸妓についてのみ見られるのであつて「東遊廓」を知らずしては岡崎の花街を語るに足らずとせられる。これを立場を同じうして一段格の下つたものに旧城址附近に巣づく「龍城連」があり、万事御手軽な所に特色を有つてゐる。廓芸妓ほど古雅でなく、さりとて龍城連ほどに砕けても居らず、その中間を行つて最も現代式なものに「松栄連」があつて、此の一党が数に於ては圧倒的優勢を示して居る。

今回はこの四花街のうち、『龍城連』こと板屋町を歩くことにします。当時の様子は以下のように記載されています。

板屋町(別称、龍城連)市街の西隅板屋町、伊賀川堤と五萬石でも船の着いた菅生川と市外矢作川とにかこまれた一廓で、岡崎城址とは濠ひとつ隔つるのみ、岡崎城を「龍ヶ城」と称したるに因んで龍城連と呼ばれてゐる。此の地は元岡崎城主田中兵部大輔吉政が天神山の木を伐出して、その土を以て城西の沼澤を埋めその木材を以て板屋を建てて町民を住ました所から、板屋町の名を得たと言はれる。天保十三年の伝馬町庄屋の書留め帳の中に、板屋町茶屋女の為め隣駅藤川宿の茶屋が酷だしく影響を受け、赤坂代官所を通じて抗議の提出されたことが出て居る位で、文化文政時代から伝馬町の廓と相まつて岡崎の二大花街を成して居り、大正十二年三月限り伝馬町遊廓と共に今の東廓へ移転する筈であつたのを、妓楼だけは移転したが芸妓屋と揚屋は踏止まつて後三ヶ年の営業許可を受け、更に運動を続けた結果、芸妓街として昭和三年四月永久に営業許可を得たものである。

それでは2014年当時の様子を見ていきます。

岡崎駅前。いかにもな地方都市の駅前という感じw

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徳川家康が産まれた岡崎城。

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岡崎城の西側に板屋町へと続く橋があるので渡っていきます。

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花街あるとこラブホあり。このホテル「やんちゃ貴族 大使館」は板屋町の中央にドドーンと鎮座していてかなり目立っています。※最近、ラブホの店名が変わったみたいです。どうでもいいですけど(笑)

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ラブホの目の前にある小料理屋「福柳」。当時の屋号は「みどり」。18歳未満お断りの札が立っていることが遺構であることを物語っています。(地図①)

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この建物もそれっぽいですね。龍城連の入り口付近にあるので検番か何かだったり?(地図②)

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こちらも当時の遺構。入り口に屋号があるのですが、読めません・・・(地図③)

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この建物、裏手に回ると菱形の意匠がオツな感じ。

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こちらは当時の建物に洋風部分を改築したのか?それとも元からそのように設計されているか?さだかではありませんが和洋折衷の珍しい遺構です。(地図⑤)

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岡崎の残りの三花街『東遊廓』『龍城連』『松栄連』もいずれ訪れてみたいと思います。

 

 

 

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