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吉原遊郭 -東京都-

1617年、江戸幕府公認の遊廓として誕生した「吉原遊廓」は、当初、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にありました。
しかし40年後、明暦の大火でこの日本橋の吉原遊廓は消失。浅草の田園地帯に移転され、昭和33年2月28日の売春防止法施行までの341年間、営業を続けていました。

日本橋の吉原を「元吉原」、現在の千束4丁目にある吉原を「新吉原」と呼び、一般的に「吉原」とは後者のことを指します。

「吉原」の語源は、遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿だったという説と、葦(あし)の生い茂る場所に築かれたために「葦原(あしわら)」だったものが、「葦=あし=悪し」ということでイメージが良くないため、「悪し」の対義語である「吉」をあてて「吉原」とした説があります。

下は昔と現在の吉原の地図を比較したものです。300年以上もほとんど変化がないのは驚きです。

吉原全体はちょっと斜めになって配置されているがわかると思います。その理由には諸説あります。

1つは「山谷堀(現在の国道306号線、土手の伊勢屋のある通り)に平行に設置したため」です。ありがちですね。

もう1つは、「客と寝た場合、客の頭が北枕にならないため」。ここまで配慮されているのはすごいです。

もう1つは、「鬼門」を避けるため。陰と陽の境目である鬼門、裏鬼門は昔から不幸の象徴とされていました。

昔の吉原は、山谷堀〜「五十間通り」と呼ばれる曲がりくねった道の先にある吉原大門しか入り口が無く、周囲は「お歯黒どぶ」と呼ばれた真っ黒な水路で囲まれていました。これは遊女たちが足抜けできないようにするためです。

そんなことを思い描きながら、吉原を探索しました。

国道306号線の交差点「吉原大門」。門はないですが、交差点名として残っています(地図①)

「吉原大門」の近くには見返り柳があります。京都の島原遊郭にも同じものがありました。遊郭で遊んだ客が、後ろ髪をひかれつつこの柳のあたりで振り返るところから命名されています。同じような場所に「思案橋」もあります。遊郭に行こうか行くまいか思案したのが橋の上だったことから命名されています。こちらは長崎の丸山遊郭が有名です(地図②)

吉原大門の交差点付近には天丼で有名な「土手の伊勢屋」と「桜なべの中江」があります。桜なべとは馬肉の鍋のこと。吉原には当時、多くの桜鍋を出す店がありました。「馬力(精力)をつけて」遊びに行くためとか、「吉原で遊びたい客が自分の馬を売ってお金にしたが、買ったほうはどんどん馬が増えてしまい、鍋料理にしたら大成功した」とか、店が多い理由には諸説あります。(地図③)

伊勢屋の天丼。美味しいですが、ボリュームが多すぎて、後半はクドいかなと…

吉原大門の交差点からソープ街に向かう道。ここは五十軒通と呼ばれるクネった道があります。なぜクネっているかと言うと、山谷堀あたりを訪れた大名様が直接遊郭を目にすることがないように配慮されてたためだそうです。(地図④)

吉原のメインストリートから横道(伏見通り)に入ったところにある旧屋号「モリヤ」。現在もアパートとして使われているようです。(地図⑤)

モリヤの隣にある旧屋号「プリンセス」。吉原に残るカフェー建築の代表格。アールが艶かしいですね。(地図⑥)

2階の4本のアーチが特徴の旧屋号「親切」(地図⑦)

旧屋号「マスミ」。屋号までバッチリ残ってます(地図⑧)

女性的な曲線が特徴のカフェー建築。旧屋号は「黒潮」(地図⑨)

中央の丸柱はおそらく当時のものでしょう。旧屋号「太閤」(地図⑩)

側面のハート型の意匠が面白い旧屋号「ゆうらく」(地図⑪)

ゆうらくを側面から。なんですかねこれ…。

遊女を供養する吉原神社と弁財天(地図⑫)

弁財天様。関東大震災時、500人近い遊女が火事の熱さから逃れるために、このあたりの池に飛び込み、溺死したそうです。

 

 

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